気持ちに名前を付けてあげよう
みなさんおはようございます。
この数ヶ月、ドラマを見ない生活を続けていたのですが、このクール「大豆田とわ子と三人の元夫」だけ見ています。AQUOSのドラ丸機能で録画してあったので、1話だけ見てみようと思ったらはまりました。鹿太郎が、お気に入りです。本当に器がちっちゃくて痛々しいけど、愛らしい存在です。
「僕が開いた飲み会、みんな楽しんでる?」なんて、わざわざ言います?僕が開いたって。
気持ちを「言葉」として認識するかどうか
ドラマを見ていてとても引きつけられた言葉がありました。
言葉にしたら言葉が気持ちを上書きしちゃう気がしてさ。何かね。ふわふわしちゃってるんだよね。
— よっしー@Y.TAKEDA (@takeda109) 2021年4月27日
『大豆田とわ子と三人の元夫』第一話
とわ子(松たか子)は、シロクマハウジングという名前のハウスメーカーの社長です。ある日とわ子は、徹夜で仕事をしたため、もうろうとしながら帰宅していました。しかし、まっすぐに歩くことができないほど疲労していたため工事現場に迷い込んで、水たまりに落ちてしまいます。そこに偶然通りかかった一人目の元夫・田中八作(松田龍平)に助けてもらい、服を乾かすために八作の部屋に入れてもらいます。部屋の中で、とわ子は八作に「おばあちゃんが亡くなった」と伝えます。その時、膝枕をしてもらいながら八作にこの言葉を伝えるんです。
この言葉を聞きながら僕も「そういうことあるなぁ。自分の思いを言葉にしたくないときってあるよなぁ。」と感じました。このもやもやした気持ちは、言葉になってないからこそ抱えられる気持ちではないかと思っていたからです。
図にするとこんな感じです。抱えている気持ちよりも、言語化した気持ちの方が少なくなってしまう気がしていました。
ただ、最近教育論文を読んだり本を読んだりする中で、そんなことはないんだ、「むしろ言葉にしていった方がいいんだ」と思うようになってきました。
言語論的転回(言葉が現実を構築している)
言語論的転回という言葉があります。
【意味】
ある人の使用する言語表現がその人の思想を写像(mapping)したものであるという仮定の下、思想の具体的分析の方法として言語の分析を採用するという方法論的転換を言う。
【概要】
(前略)フェルディナン・ド・ソシュールによれば、言語の意味は音声的差異から独立しては存在しえず、意味の差異は私たちの知覚を構造化していると言う。したがって、私たちが現実に関して知ることができることすべては、言語によって条件づけられているというのである。(中略)
例えば、日本では虹は赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の「7色に見える」が、英語には藍に該当する単語がないので「6色に見える」。また、ヨーロッパ文化圏には肩こりに当たる言葉がないので、「肩こりは起こらない」。これらは言葉が身体感覚を規定する例であり、言葉が現実を構築する例である。
Wikipediaより引用
以前は、「言語に先行して意識がある」「心の中に『思い』がまずあり、それを言うことで『表現』する。」と考えられていました。それが、ソシュールの言語論的転回以後、「言語によって意識が構成される」つまり「表現すると同時に思考や感情が構成される」と考えるようになったそうです。
言葉になるからこそ、自分もその気持ちをつかまえることができるし、その感情を知ることができます。名前を付けることができなければ、その気持ちは「何ものでもない状態」であるわけです。「藍色」という言葉をしらない外国では虹は6色に見えるし、「肩こり」という言葉のないヨーロッパ圏では、肩こりは発生しない。そういうことです。自分自身がつらい状況であったとしても、それを「つらい」と認識しなければ、つらくはないということです。
もやもやした気持ちを抱えたいけど、その得体の知らない気持ちを、言葉によって一つずつ認識していくことで、「自分自身でもそんなことを感じていなかった!」と気づくことがあります。言葉にするからこそできることです。
おわりに
僕は今まで、あまり多くを語らないままでした。それでも、それなりに楽しくやってきたつもりだし、充実した日々を過ごしてきました。ただ、昔のことを覚えていなかったり、その当時の自分自身の感情が分からなかったりして、家族や友人との話題についていけないことがありました。きっと、昔から、言葉で認識するのを何となく避けていたからだと思います。
「言葉では説明できない気持ち」は結局、
「何を考えていたのかよくわからない、思い出せない気持ち」 へと変わっていきます。
そうなってから「あのときどうだったかなぁ」と振り返ろうとしても、当時捕まえられなかった気持ちを、今更考えることはできません。自分の気持ちをどんどんと言葉にしていくことで、人生を豊かに変えることができそうだと感じたことが、自分自身にとって一番の収穫です。